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番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

地方都市物語 番外編

氷の唇

written by asami
 その口をふさいで
 私の言葉をお聞きなさい
 じっと耳を澄まして
 忘れないで
 きっと忘れないで
 
 吹雪いていた。
真夜中、一軒家の小さな山荘にアリアはじっと待っていた。
窓から、何度外を確認しただろう。
さっきから、長椅子と窓を往復していた。
 窓から覗く景色は、夜だというのに、辺りを真っ白に染める雪で、視界は一面白く遮られていた。
 雨と違い、音もなく降りしきる雪。
 時折、風の音だけがゴウと響く。
「ヒロはどうしたのかな」
 静寂を破りたくて呟いてみた。
 テレビはなく、ラジオは雑音が酷く、聞くことができない。携帯電話も電波が届かないような北海道のとある山間。
 耳なりがするような静寂。
 CDでも持ってきたらよかったと、アリアは悔やんだ。
 こんな吹雪の日は心細くなる。
 お化けを怖がる歳でもないが、誰かと過ごしたかった。
 だが、待ち人は来ない。この吹雪では、もう今夜は来ないかもしれない。
 アリアは小さくため息をつき、長椅子に足を投げ出して座った。
 目の前のテーブルには、飲みかけのバーボンのオンザロックと、今回の収穫である現金、百万円の束が5つ、無造作に置いてあった。
 首尾よく、獲物は簡単に盗み出せた。簡単すぎて拍子抜けしたほどだ。
 しかし、ヒロとはぐれてしまった。祝杯のお酒も、一人ではつまらない。
 つい黙々と飲んでしまい、バーボンの減りも早くなっていた。
 酔うことで、不安な気持ちを紛らわせていた。
ここはいざという時の待ち合わせ場所。時間がかかっても、ここに待っていれば必ず来るはずだ。
――ヒロに限って、心配はないと思うけれど、何もトラブルが起きていませんように。
「ヒロ?」
 外で物音がしたような気がして、再び窓辺に駆け寄った。
 だが、車の影はない。
「なんだ、気のせいか……」
 アリアは小さくため息をつき、ふと、窓硝子に映った自分の姿に視線を移した。
 いつもの黒いサングラスが映っている。習慣で、かけたまま過ごしていたのだ。一人でいるのだから、顔を隠す必要もないのに。
 硝子に映る自分を見つめ、肩をすくめて苦笑した。
 いつもと同じ、少年のような服装。白いシャツにパンツスタイル。
 肩につきそうな髪も、無造作にしている。
 ――二人でいるときくらい、女の姿になれって、また、ヒロに文句を言われそうだ。
 でも、この姿のほうが気楽だった。長年この姿で過ごしてきたせいか、この方が自分でいられるのだ。
「……暇だなあ。ヒロが来るまで女装してようかな」
 独り言を呟く。
 呟いて、また苦笑した。
 ――女装だって。私は女なのに。自分でも自覚なさすぎだよね。
 サングラスをはずして、片手で髪をアップにし、窓硝子を鏡にして覗き込む。
「ちゃんと女に見える、よね」
 首を傾げポーズをとって、にっこり微笑んでみた。
 見慣れない二十代の女性、大きめの瞳。私を孤独に追いやった母に似ている顔。さっきとは違う自分がこちらを見ている。
 ――刑事さんは、どんな女性が好みなんだろう。
「……馬鹿みたい」
 慌てて声に出して打ち消した。
刑事……東十無(あずまとむ)のことを思い浮かべてしまい、急に恥ずかしくなり、またサングラスをかけると、長椅子に腰をおろし、グラスに半分ほど残っていたフォア・ローゼズを飲み干した。
 ――十無のことなんか考えたりして、どうかしている。考えたってどうにもならないのに。どうせ私は、十無にとってはただのこそ泥の少年。
 静寂と時間が、アリアに考えごとを強要させた。
 アルコールの効果も加わって、思考が迷走する。
 ――ヒロといつまでこんな生活を続けるのだろう。私は何から逃げているのか。母の影から? いや、自分から逃げているのかもしれない。自分を偽って、直視しないで逃げているのだ。
 別の人間になりすまして、別の人間として生まれ変わりたい。
 でも、やっぱりこれって逃げだよね。
「あー、考えるの、やめた。何か本でもなかったかな……」
 長椅子から勢いよく立ち上がり、吹っ切るように大きめの声で言った。
 妙に声が響いた。
午前一時が過ぎていた。
 トントン。
「ヒロ!」
 扉を叩く音がはっきりと聞こえ、アリアは玄関に走った。
 玄関扉を開けたと同時に、部屋中に冷たい風が雪と共に勢いよく吹き込んできた。
 居間は、あっという間に冷えきった。
ヒロではなかった。
玄関には、黒く長いコートをまとった女性が立っていたのだ。顔はフードを深くかぶり、よく見えないが、長い黒髪が風になびいていた。
「……あなたは?」
 アリアは拍子抜けし、戸惑った。
 ――こんな真夜中に、女の人が一人で? この辺りには他に家はないはずだけれど。
「夜分すいません。この先で、車が雪に埋まってしまい、ここまで歩いてきました。申し訳ないのですが、一晩泊めていただきたいの」
 抑揚のない、細い声。彼女は丁寧にお願いしているはずなのだが、態度には人を使い慣れているような、威圧感が感じられた。
「……わかりました。どうぞ」
 この吹雪の中、女性を一人放り出すわけにも行かず、アリアは仕方なく女性を部屋へ招き入れた。
 アリアはテーブルの上に放り出してあった札束を慌てて片付けたのだが、彼女はそれには目もくれず、ぼうっと立っていた。
暖炉の側に一人掛けソファを近づけ、彼女に勧めた。
「有難う」
 彼女は軽く会釈をし、雪を払いながらフードを取った。
山荘の薄暗い白熱灯の明かりの下、彼女の優雅な動作が、古いモノクロ映画を見ている気分にさせた。
コートを脱ぐと、長く波打つ黒髪がするりと絹のように流れる。
白く透き通る肌に、海の底のような青い瞳が印象的だった。
十五、六歳の少女のようにも見えるが、落ち着き払った態度は、大人の女性を感じさせる。
――ハーフだろうか? 大理石のように冷たい感じの肌。まるで人形のよう。
「何か?」
 彼女は、ソファに腰を下ろしながら、小首をかしげた。
 アリアは、ついその美しさに見とれてしまったのだ。
「あ、いえ、外国の方ですか?」
 彼女は何も答えず、ただ微笑んだ。
「これから、寝室のストーブに火をつけますから、寝室が暖まるまで、ここで暖まってください」
「有難う」
 彼女はそう言って、ゆっくりと軽く会釈した。
 ――何者だろうか? 厄介なことになってしまった。明るくなったら、ふもとまで車で送ってあげるしかないか。
居間に続く寝室に行き、部屋のストーブに薪をくべながら、アリアは明日のことを考えた。
山荘は、居間とキッチンの他、寝室が一部屋あるだけだった。
 彼女に寝室を使ってもらい、アリアは、居間の長椅子で仮眠をとろうと思った。
 ――どうせ、今夜はヒロが来るかどうかもわからない。居間でうとうとしながら待とうと思っていたのだから、彼女がいても同じことか。
 アリアはそう楽観的に思い直した。
 居間に戻ると、黒髪の彼女は暖炉の燃え盛る炎をじっと見詰めていた。
「あの、ココアでも入れましょうか?」
「紅茶があったらお願いしたいわ」
 暖炉の燃え盛る炎をじっと見ていた彼女は、寝室の扉前に立つアリアの方を振り向き、上品に微笑んだ。
 美しい微笑み。
アリアは彼女に魅入ってしまい、直ぐに返答できなかった。
「……確か、あったと思います」
 顔を赤らめ、アリアは俯いた。
――女の私から見ても、素敵な女性。
アリアは気恥ずかしくなり、その場を逃げるように、キッチンへ行った。
命令されたように感じた。
人を支配する立場の人間なのではないか?
そう思わせるような彼女の態度。
つい従ってしまう。しかし、嫌な気分にはならない。従うことが当然だと、相手を納得させてしまう何かを彼女は持っていた。
湯を沸かしているやかんがぐらぐらと音をたて、アリアは我に返った。
紅茶葉の入ったティポットに、煮えたぎった湯を注いだ。
 紅茶の香りが漂い、アリアの気持ちを落ち着かせた。
 ――何をぼーっとしているんだろう。彼女のペースに巻き込まれて、ぼろを出しては大変。しっかりしなさい、アリア。
 活を入れるように、頭の中で自分に言い聞かせた。
 トレイにポットとカップを載せ、テ―ブルに運んだ。
 白いカップに紅茶を並々と注ぐ。
 アリアは、じっと見つめる彼女の視線を感じた。
 再び赤面し、鼓動が早まる。
 ――だめだ、頭がくらくらする。彼女に見つめられると自分が自分でなくなるようだ。
 アリアは、紅茶を淹れることに専念しようとしても、どうしても彼女の視線を意識してしまい、手が震えた。
 ――この感情は何? 好きとか嫌いなんてものじゃない。もっと、絶対的なもの。
「あ、ごめんなさい!」
 とうとうお茶をこぼしてしまった。
 アリアは、慌ててティッシュで拭き取ろうとして、カップに手を引っ掛けて倒し、指先に熱い紅茶をかけてしまった。
「……あつっ!」
「あなた、大丈夫?」
 咄嗟に、彼女がアリアの手をとり、自分の両手で包み込んだ。
 暖炉にあたっていたはずなのに、ひんやりと冷たい手。
「直ぐに氷で冷やした方がいいわ」
「は、い……」
 アリアはそう返事をしたのだが、その場にくず折れるように座り込んでしまった。
 足に力が入らない。
彼女に触れられた指先から、電気が走ったように体中に何かが駆け巡り、体の自由が利かなくなったのだ。
「ごめんなさい、そんなつもりはなかったのだけれど……」
 彼女は手を離し、眉を寄せて悲しそうに顔を曇らせた。
 何故謝る必要があるのか? 私が勝手に動揺しているだけなのに。
アリアは不思議に思いながらも、まだ立ち上がれない自分に戸惑っていた。
「……私が、どうかしているんです」
 俯いたまま、そう言うのが精一杯だった。
「私のせいなの。あなたは悪くないの」
 彼女は、アリアの目の前に屈み、優しく囁いた。
 ――どういうこと?
 アリアは思わず顔を上げ、目の前にいる彼女の瞳を見てしまった。
 目を合わせたら、そらせない。
アリアはいつまでも見つめていたい衝動に駆られた。
 彼女の透き通るような白い顔が、暖炉の火に照らされ、朱色に染まっている。
 血のように赤い、真紅の唇。濡れたようにしっとりと艶のある波打つ黒髪。
そして、海の底の様に深い青色の瞳。
 時が、永遠のようにも一瞬のようにも感じられる。
 彼女は、微動だにしないアリアのサングラスに手をかけ、そっとはずした。
「綺麗なお顔……」
 アリアに抵抗しようという気は全く起きなかった。
 彼女はごく自然に、アリアの顎に手を添えて顎を引いた。
 アリアはされるがままになっていた。
「こんなに美しいのに、何故男の姿をしているのでしょう」
全て見透かされていた。
彼女はアリアの顔を食い入るように見つめた。
彼女の視線が熱く感じられる。それだけで、眩暈が起きるほどの、甘美な疼きが体中を支配する。
熱病にでもかかったように、アリアはもうろうとし、何も考えられなくなっていた。
 彼女のもう一方の手がアリアの顔の側に伸び、頬を細い指先で撫ぜた。
「私、少し飢えているの。それに少し疲れていて。だから……ごめんなさい」
 彼女はしきりに謝っていた。だが、その言葉は今のアリアには届いていない。
「その代わり、あなたに快楽を」
真紅の唇がアリアの唇に触れた。
ひやりとした唇。
ひょっとしたら雪女かもしれない。
アリアは朦朧とした思考の中で、そんなありもしないようなことを考えた。
現実からかけ離れているような美しさの彼女。
唇を重ねたことも、自然と受け入れてしまった。
恍惚がアリアを襲った。
荒くなる吐息。
「あなたは、処女じゃないのね」
 一度、唇を離して、アリアの顔を覗き込み、彼女は寂しそうにそう呟いた。
「でも、あなたからは良い香りがするわ……良い血の香り」
 再び唇を重ねる。重ねる度、アリアの意識は遠のいた。
 力が抜け、後ろに仰け反りそうになったが、彼女は片腕でアリアをしっかりと抱き締めた。
 その細腕は、見た目に反し、アリアを軽々と支えていた。
 薄れ行く意識の中、アリアはカーテンを開けたままの窓硝子に、目を向けた。
彼女の姿が映っていなかった。
一瞬、唇から見えた牙。
 恍惚の中、僅かな恐怖がアリアの頭の中に芽生えた。
「……あなたは、人間じゃない……」
 アリアのシャツをはだけて首筋を露わにし、唇を近づけようとしていた彼女は、顔を上げ、微笑んだ。
「時として、私の意志に逆らえる人間に出会うことがあるが、あなたもその種の人間か」
 今までの気品に満ちた雰囲気と違い、言葉の端に冷たさが漂い、その微笑みは嘲りを含み、まるで別人のようだった。
「本当に……人間じゃ、ない?」
 アリアは耳を疑った。
――まさか、そんなことがあるのか? では何だというのだ。雪女だとでも言うのか。
息を弾ませながらも、アリアは必死に思考を巡らせた。そして、少し緩まった彼女の腕を払いのけ、座り込んだまま、後ずさった。
「私にとって、人間を意のままにするのは造作もない。赤子の手をひねるようなもの。意識を保てようが、どうにもならない。さあ、私に身を委ねなさい」
 彼女がにじり寄ってくる。
 ――なんとかして彼女の気を逸らさなければ、私は命を落とすかもしれない。
アリアは本能的に命の危険を感じた。
「あなた……悲しい顔をしている」
 アリアは声を振り絞って呟いた。
彼女の青い瞳が大きく見開かれ、動作が止まった。
「私に向かって、そのようなことを言うとは」
 彼女は驚きの表情を浮かべ、次に苦笑した。
「あなたは、私と同じ寂しさを抱えているのでしょう?」
 彼女が動揺することで、魔力というものが薄らいだのか、アリアはいくらか言葉を口にすることが出来た。
「この娘、笑わせてくれる。人間のちっぽけな短い時間と、私の永遠に終わることのない闇を同じだなどと!」
「寂しさに、時間は関係ないでしょ?」
「黙りなさい」
 一層威圧的な態度で、一言そう発したが、アリアには明らかに彼女が動揺しているように見えた。
――人間ではないとしても、彼女にはきっと、私と同じように感情があるのだ。
そう思いたい。
彼女はアリアを絨毯の上に、片手で軽々と押し倒した。
「さて、まずはそのおしゃべりな口を塞ごうか」
 ゆっくりと彼女の顔が近づき、アリアの唇を奪った。黒髪がアリアに覆いかぶさる。
 襲いかかる甘美な恍惚。
「……小生意気なおまえの命、貰うとしようか。私の下僕になるがいい」
 アリアのはだけた首筋を、冷たい舌がなぞった。
 アリアは一縷の望みを賭け、動かない口唇を辛うじて開いた。
「私には、大切な人がいる……死ぬ、わけには、いかない」
「死? そのようなもの、下僕となれば無縁となる。今の姿のまま、永遠を彷徨うのだ」
 彼女は、アリアの言葉に反応し、首筋から顔を上げ、答えた。
「……私は、大切な人と共に老い、死んでゆきたい」
「死ぬのが怖いのではないのか? 人間の命など、百年もない」
 彼女はこちらをじっと見つめ、アリアの反応を窺っているようだった。
アリアは視線を合わさないよう意識的に目を伏せた。
あの瞳につかまったら、もう抵抗できない、そう思ったのだ。
「違う。大切な人と過ごせなければ、例え何百年生きたとしても、それは死んでいるも同然。生ける屍に過ぎない」
「……生ける屍」
 彼女は、上体を起こしてアリアから離れ、絨毯の上に座ったまま、声を押し殺して、クックッと笑った。
「確かに、私は生ける屍。愛する人は時の彼方へ生まれ変わり、私を忘れ去っていく。……愛する人を捜し求め、永遠を彷徨うのが私の定め」
 アリアはゆっくりと起き上がることができた。体の自由がきくようになっていたのだ。
 恐る恐る、彼女の顔を盗み見た。
 口元に手をあて、声を押し殺して笑っているが、瞳を伏せ、泣いているようにも見えた。
 もし、彼女が何百年も生きていたとしても、その年月は、価値のあるものだったのだろうか。
 愛する人を捜し求め、出会うことなくすれ違い、孤独なまま、絶望の淵に立ちつくしているのではないか。
 私と同じに、彼女もまた愛する人を求め、苦悩している。
 アリアはそんな想像をめぐらせた。
悲壮な表情の彼女を前にして、アリアの心から、いつしか恐怖の念が消え去り、同情と哀れみが沸いてきた。
彼女を直視しても、先ほどのような不思議な感情にはならない。
ただ、彼女が辛そうで、アリアは何か手を差し伸べたくなった。
「可哀想な人」
「面白いことを言う。この私を、可哀想と言うのか」
 彼女は不敵な笑みを浮かべたが、襲いかかることはなかった。
膝がつきそうなくらい側で、向かい合わせに絨毯の上に座り込み、彼女はアリアの言葉に傾聴している。
緊張が解け、アリアもその場に座りなおして胡坐をかいた。
「孤独は、絶望を生む。私も、そうだった」
 アリアは、母と暮らしていた当時の、居場所のない、誰からも必要とされない孤独を思い出しながら、かみ締めるように言った。
「小娘のお前に、何がわかるというのだ」
「愛する気持ちは同じでしょう?」
「黙れ。人間風情が、私に意見するな」
 そう言葉を吐いたが、今の彼女は魔物ではなく、美しい孤独な少女に過ぎなかった。
「……愛する人は、あなたが来るのを、何処かできっと待ち続けている。そう信じて、ね?」
 意外な言葉を聞いたとでも言うように、彼女の瞳が大きく見開かれた。
「だから、絶望しないで。諦めないで」
 彼女は困ったように、眉を寄せてから、ふっと優しい表情を見せた。
青い海の底のような瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
 彼女は、涙が頬を伝いぽたりと落ちるまで、その存在に気がついていないようだった。
「な・み・だ?」
 濡れた頬に手を当てて、彼女は戸惑いの表情を見せた。
 泣くなどという感情を、もう何年も忘れて、涙など、自分にはないものと彼女は思っていたのではないだろうか。
こんな風に涙が流れるとは、彼女自身想像もしていなかったのだろう。
動揺が見て取れた。
はらはらと落ちる涙。
少女のように、戸惑う彼女。
 ――泣くことを知らないなんて!
思わず、アリアは彼女を抱きすくめた。
「大丈夫……きっと、大丈夫。いつまでも孤独に彷徨うなんて、そんな悲しいことを言わないで」
 アリアは彼女の髪を優しく撫ぜたが、彼女はされるがままになっていた。
 声も無く、彼女は泣いている。
「あなた、おかしな人……私が怖くないなんて」
「泣いているあなたを、そんな風には思えない」
「優しさに……慣れていないの」
「泣きたい時に、泣いたらいい」
「私が、泣くなんて……泣くなんてこと……」
 アリアは、涙が止まらない彼女を、暫くそのまま抱き締めていた。
 どのくらいの時間が過ぎただろうか。
 不意にアリアは彼女に口付けされ、意識をなくしてその場に倒れた。
そして、彼女は消えた。
  
 アリアは陽の光で目が覚めた。
 寝室のベッド。
いつの間にベッドに寝たのだろう。
「お早う。昨日は待たせたな。朝食の用意ができたぞ、もう起きろ」
 寝室のカーテンを開けながら、上機嫌でヒロが言った。
 いつ着いたのか、長い髪も後ろに束ね、もうすっかり身支度も整っていた。
「あれ? 彼女は」
 アリアは、まだもうろうとしている頭を
起こし、寝ぼけ眼で言った。
「誰かいたのか?」
 ヒロの表情が険しくなった。
 自分は勝手にふらりといなくなって、女性と過ごしていることがあるくせに、ヒロが知らないところで、アリアが誰かと会っていると、必ず嫌な顔をする。
「うん。車が雪にはまって……」
「車? 何処にもなかったぞ」
「そう……いやいいんだ」
「よくない。どういうことだ?」
 面白くなさそうに、アリアより七歳も年上のヒロが、子供のように口を尖らせている。
「……夢を見たのかもしれない」
昨夜のことは霞がかかったように、うろ覚えだった。
――しかし、そんなに酩酊していただろうか。でもあれは、現実?
アリアは、自信がなかった。
待ちぼうけして、服のまま眠ってしまったのかもしれない。
あんなこと、現実にあるはずがないのだから。
「まあ、女なら許す。でも、お前のことだから、女でも危ないか」
 ヒロが、ベットサイドに座っているアリアの横に勢いよく座り、アリアの髪をくしゃりと撫ぜた。
「なに? それ」
「だって、おまえ。見た目がそれじゃ、女のほうが勘違いする」
「からかわないでよ」
 確かに、アリアの普段の姿は、ちょっと目を惹く中性的な少年だ。
 それで、面倒なことになったこともあった。
 ――だからって、そんなこと言わないでほしい。男の姿でいた方が、なにかと『仕事』がし易いと言ったのは、ヒロなんだから。
 おかげで、この姿のほうが自分らしくなってしまったし。
 アリアは文句の一つも言いたくなり、ヒロの方を向いたのだが、その拍子に、ついと、ヒロに顎を引かれた。
「まあ、俺には、外見など関係ないが。俺はいつも真面目だよ。いつもお前がはぐらかすんだろう?」
「はぐらかしてなんか……」
 そう言いながら、アリアは視線が合わないように、目を伏せた。
「お前、なんだかいつもと雰囲気が違うな。何かこう……」
「熱でもあるのかな。自分でも変な感じがする」
 体がけだるく、座っていても、まだ夢の中にいるようだった。
「そういうことじゃなくて、色っぽい……いや、なんでもない」
ヒロは途中で言葉を濁し、アリアを切なそうに見つめた。
「俺は、お前が好きだ」
「うん……」
 ――ヒロの好きはわからない。そんなことを言って、女性と平気で一夜を過ごすのだから。
真っ直ぐにこちらを見つめるヒロの瞳。
 アリアはこの瞳が苦手だった。
ずっとこの瞳に守られてきた。安らぎを感じる瞳。でも、有無を言わさない絶対的な瞳。
「義理の兄としてではなく」
 ヒロが唇を寄せた。
 アリアは無言で、ヒロの手を振り払った。
「……ごめん、ヒロのことは好き。けれど……」
 まともに顔を見られない。アリアは俯いてしまった。
 ――大切な人。ヒロがいなかったら私はここにはいない。母の言うままに、結婚詐欺の片棒を担ぎ、体を売るような酷い生活をしていたのかもしれない。
だから、ヒロが言うことは全て従ってきた。『仕事』も言う通りにやってきた。
ヒロがいない生活は考えられない。
ヒロがふいといなくなると、不安で仕方がない。
長髪に長身、甘いマスクのヒロは、女性を惹きつける魅力を持っている。
飲み屋で女性を引っ掛けるのは造作もないことで、そんな女性と一緒に過ごしていると思うと、胸が苦しくなる。
でも、この好きって、家族として? それとも、恋人として?
「ふん。今日のお前は、俺の口を軽くさせる。お前に答えを求めようなんて、俺もどうかしている」
 ヒロは自虐的な笑みを浮かべ、鼻で笑った。
「さてと、朝食が終わったら、ここを出るとするか」
 そう言いながら、立ち上がったヒロは、不意に身を屈め、アリアの唇をかすめ奪った。
「ヒロ!」
「このくらいいいだろ」
 にやりとしながら、ヒロは部屋を出ていった。
 
「アリア、何かあったでしょ?」
 高校から帰宅した自称『泥棒の弟子』の柚子は、ソファに寝そべっていたアリアを見て、開口一番、疑いの眼差しでそう訊いてきた。
 都内にあるアジトの一つであるマンションにアリアとヒロが着いたのは、昼下がりだった。
ヒロは、マンションまでアリアを送ると、苦手な柚子が帰ってくる前に、直ぐ帰ったのだった。
まだけだるさが抜けないアリアは、横になったまま「いや、何もないよ」と答えたのだが、柚子は納得しない。
「だって、なんだかアリア……感じが違う。まさか、ヒロと!」
「何もないって!」
 アリアは側で甲高い声を上げる柚子に、寝ていられなくなり、仕方なくゆらりと上体を起こし、ソファに座りなおした。
 頭が重かった。アリアは両手で頭を抱えた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「心配要らない、ちょっと疲れただけだと思う」
 アリアは柚子に心配かけまいと、顔を少し上げ、微笑んだ。
 茶髪に三つ網の柚子が、団栗目をしてこちらを覗き込んでいたかと思うと、ぱあっと顔を赤らめ、俯いてしまった。
「どうしたの?」
「私、なんだか変。アリアは女だって判っているのに、見られると、どきどきしちゃう」
「えっ?」
 ――ヒロも、おかしなことを言っていた。いつもと雰囲気が違うとか……。
「もしかして、私が変なのかもしれない。でも、よく思い出せない」
 アリアは眉間に手をあて、考え込んだ。
「なんだかよくわからないけれど、今のアリアは、私でも押し倒されたいって思うくらい、魅惑的なのよ」
 何がどうなっているんだかわからないが、どうやらそれは確からしい。
 帰京途中、歩いていると、何人かに振り返られ、不思議に思っていた。
「ふ、ふーん。面白いわね。あ、そうだ、夕飯のお買い物に行ってくる。アリアは出掛けちゃだめよ」
 思いついたようにそう言って、柚子はさっさと出掛けてしまった。
 柚子に言われるまでもなく、アリアはけだるくてとても出掛ける気にはなれなかった。
 再びソファに横になった。
「アリア、いるか?」
 うとうとと、ようやく眠りかけた頃、東昇(あずまのぼる)の元気な声が聞こえてきた。
 柚子は鍵をかけていかなかったらしい。いつものように、昇は勝手に部屋に上がってきた。
 アリアは、横になったまま、側に置いていたサングラスをかけた。
「昇、いつも言っているけれど、勝手に上がらないで」
「そう硬いことを言うなよ」
「柚子ならいないよ。だから、夕飯はまだできていない」
「酷いな、まるで俺が夕飯をめがけてきたような言い方だ」
「違うの? いつも朝食たかりに来るくせに」
「俺はだなあ、お前が犯罪に走らないよう、未然に予防しに……」
「そうやって、仕事サボってばかりいると、首切られるよ」
 アリアは横になったまま、いつもの調子で憎まれ口を言った。
「失礼だな、仕事はこなしているぞ。今だって浮気調査中で、ここにはたまたま近かったからよっただけだ」
「本当に?」
 尾行中だったのだろうか。仕事中にしては、昇はジ―パンにティーシャツというラフな格好をして、相変わらず、伸びかけた髪のままだ。
「おまえ、具合が悪いんだろ? ほら、蜜柑持って来たぞ」
 アリアはそのままの姿勢で、目を瞑ったまま「ありがとう」と言った。
 タイミングよく昇が来たと思ったら、柚子め、また余計な連絡をしたのか。
 ゆっくりと起き上がろうとしたが、昇がそれを制した。
「寝ていろよ。俺が蜜柑むいてやるから」
「いいよ、自分でできるから」
 そう言って、アリアは昇とまともに向き合ってしまった。
 一瞬、昇はアリアの傍に膝をついたまま、動きを止めた。
 そして、困惑したような表情。
昇は、何かを感じ取ったに違いなかった。
「アリア」
 昇の目がうつろだった。
 アリアの頬を撫ぜる昇の手。
「昇? ちょっと、昇!」
 アリアが声をかけても、昇は反応しなかった。まるで何かに憑かれたような、表情。
 横になっていたアリアは、昇に体を押さえ込まれ、両腕の自由もきかない。
アリアは口付けされそうになった。
「昇!」
 アリアはもう一度、呼んでみたが無駄だった。
 抵抗しようとしても、昇の腕力には到底敵わない。
「おい、こら。お前何やってるんだ!」
 昇と同じ声が背後からしたと同時に、昇はその男に肩をつかまれ、引っ張られてソファの横に転がった。
 昇とは双子の兄になる、東十無(あずまとむ)だった。
同じ顔だが、十無はスーツをきちんと着こなし、髪も短く整えている。几帳面な性格が現われていた。
「いてーなぁ! 兄貴、何するんだよ!」
 昇は床にぶつけた腰をさすりながら、起き上がった。
「それはこっちの台詞だ。お前、アリアに、その……」
 言いながら十無は赤面している。
「あ? 俺はただアリアに蜜柑を剥いてやろうとしていただけだぞ?」
「おまえ、今アリアを押さえ込んで……」
「俺が?」
 その場に胡坐をかき、昇は目を丸くした。
「まさか」
 昇も十無と同じ顔を赤面させた。
「ごめん、昇は悪くないと思う。多分、私が原因だ」
 アリアはけだるい体を横たえた状態で、二人に顔を背けたまま、言った。
「え?」
 二人はわけがわからないとでもいうように、素っ頓狂な声を挙げた。
「とにかく、私を一人にしておいて。今はただ、眠りたい」
 強力な睡魔が襲い、アリアは瞼を開けていられなかった。
「じゃあ俺、また来るから。大事にしろよ」
 昇は覚えていないとはいえ、自分のとった行動が気恥ずかしくなったのか、そそくさと逃げるように部屋を出ていった。
「十無も、仕事に戻りなよ」
「俺の仕事は、おまえを張り込むことだ」
「じゃあ、マンションの外でどうぞ。今日はもう、私は何処にも動かないから」
「そんなに体が辛いのであれば、病院へ行ったほうがいいぞ。俺が送ってやろうか?」
 アリアは冷たく言ったのだが、十無は優しく声をかけてくる。
「いいから、放っておいて!」
 アリアは寝室へ行こうと、起き上がったのだが、また頭がくらくらした。
「おい、大丈夫か?」
 ふらついたアリアを十無が支えた。
「私に近寄らないで」
 腕を大きく振ったのだが、無駄だった。
 次の瞬間、アリアは十無に抱きかかえられていた。
「歩けないんだろう? 寝室まで俺が連れて行く」
 十無はその姿勢のまま、アリアと顔をあわせてしまった。
 昇と同じようなリアクション。
 アリアを見つめる熱を帯びたうつろな瞳。
「十無?」
 声をかけても、やはり反応はなかった。
十無はアリアを寝室へと運び、そっと寝かせてくれたのだが、瞳はうつろなままだった。
 ――十無も、意識が飛んでいるの? やっぱり変になっちゃった?
 こちらをじっと見つめる十無。
 アリアは目をそらすにもそらせず、うつろな十無の瞳を不安な気持ちで見上げていた。
「アリア、愛している……」
「十無?」
「誰にも、邪魔はさせない」
 ――やっぱり、十無どうかしちゃったんだ!
「愛している。あなたのその唇がほしい、あなたの全てを俺に……」
 十無は、ベッドの横にひざまずき、アリアの手の甲に口付けた。
 男だと思っている私に対して、普段から無口な十無が、絶対に言わないような台詞。考えられない行動。
 ――どうしたらいい?
 突然アリアの頭の中の霧がすうっと晴れた。
そして、アリアの脳裏に、昨晩の出来事が鮮明に蘇ってきたのだ。
その口をふさいで
 私の言葉をお聞きなさい
 じっと耳を澄まして
忘れないで
 きっと忘れないで
 あなたに捧げる私の力。
 ひと時、その力で愛しい人を手に入れて。
 私のように、彷徨わぬように。
 私はシャナン。
 あなたと同じ、愛に彷徨う者。
 吸血鬼の私には叶わぬ夢でも。
 忘れないで……
「吸血鬼……」
 その言葉が口をついた。
 ――では、この不思議な現象は彼女のせいなのか。
 魔力とでも言うのか。こんなことが本当に?
 しかし、アリアは悠長に考えているどころではなかった。
 十無が手の甲に口付けたままじっと動かない。
 ――十無は好きだけれど、こんな人を操るようなこと、嫌だ。
「十無、お願いだから目を覚まして。私はいつものあなたが好き」
 アリアは祈る思いで、自分にひざまずく十無を抱き締めた。
「アリア……あなたの気持ちを手に入れることができるのであれば、私は何を犠牲にしてもいい」
 十無の優しい声。優しい抱擁。
 でも、これは本当の十無じゃない。
「あなたのその唇を」
 十無は硝子細工でも扱うように、そっとアリアの頬に手を掛けた。
 偽りの十無。
 そうわかっていても、アリアはその手を振り解けなかった。
 ――もうこのまま、どうなっても構わない。
「十無……愛してる」
 唇が触れそうなほど近づいた時、アリアは瞳を閉じて十無に囁いた。
 十無がびくりとしたようだった。
 一瞬、動きが止まり、アリアに辛うじて聞こえる、かすれた声で十無が囁いた。
「……好きだ」
 唇が触れた。
 今時の高校生でもしないような、触れるか触れないかのキス。
 キスの後、アリアから離れて十無は俯いた。
 先ほどとは十無の態度が違う。
「十無?」
 アリアが十無に触れようと手を伸ばしたが、十無はそれを避け、あとずさった。
「俺、用を思い出した」
「十無?」
 もう一度呼んだが、十無は顔をあわせないようにしたまま部屋を出ていった。
 明らかに十無は正気に戻っていた。
 ――でもいつから? どうして戻ったのだろう? 
まだ体はだるい。眠気で、考えるのもつらくなり、アリアはとさりとベッドに横になった。

忘れないで。
あなたが愛する人と出会った時
忘れないで。
あなたが愛を囁いた時
愛する人は心を取り戻す。
愛を口にしてはならぬ
叶わぬ恋であれば
そのまま愛する人を虜にするもよし
後はあなたの心次第。

アリアは夢の中で、シャナンの囁きを聞いた。
邪気に当てられたアリアは、三日三晩けだるい日々を送った。
吸血鬼。
この世に魔物が潜むとは、アリアはいまだに信じられなかった。
「柚子、吸血鬼っていると思う?」
「なによ、そんなのいるわけないでしょ。ま、いるとしても、そんなものよりもっと怖いものが世の中にはたっぷりあるから、誰も気にも留めないかもね。例えば、人の憎しみ、とか」
 なるほど、とアリアは思った。
   END

本編情報
作品名 地方都市物語
作者名 asami
掲載サイト 地方都市物語
注意事項 年齢制限なし / 性別制限なし / 表現制限なし / シリーズ連載中
紹介 一見美少年、変装が得意な男装の泥棒アリアは、自分を追う刑事、東十無(あずまとむ)が気になる。その双子の弟で探偵である昇(のぼる)もまたアリアに好意を寄せている。泥棒仲間で義兄であるヒロとの微妙な関係もあり、アリアの恋は複雑。女怪盗D(ディ−)や泥棒志願の女子高生、柚子も加わりじれったくてすれ違いの恋愛。
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